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お知らせ

短い間でしたが、このブログを閉鎖し、元のブログに統合する事とします。
# by stavgozint | 2010-11-13 16:05

小野小町と深草少将

世界三大美女に数えられる小野小町だが、様々な伝説が付随
する為に、本当に実在したかどうかもよくわからない。しか
し。残した歌は残っているので、歌を残した女性の存在は確
実なのだろう。

恋多き女などのレッテルを張られながら、最終的には鬼婆に
なったという伝説まで残る小野小町とは?と考えてみた。と
にかく、美女であるからワンサカと男が小町の元へと寄って
来たという。しかし小町は、こういう歌を残した…。


見るめなきわが身をうらとしらねばや

            かれなであまのあしたゆく来る


【適当訳】

「逢えない私の身である事を御存じ無い為、疲れも構わずに
 来るのでしょうが、熱心に来れば来るほど、私は辛くなる
 のです。」

この歌こそ、まさにモテる美女そのものを詠った歌だと思う

しかし、こうした小町の男をはねのける歌にもめげない男が
いた。そう、伝説となった深草少将である。とにかく、小町
に対して、しつこいというか…熱心だったのだろう。そこで
小町は、深草少将に対して、厳しい条件を付ける。ただし、
この条件を付けたというのは、小町の中で『この人なら…。』
という想いがあってのものだったようだ。

して、その条件とは、雨にも負けず、風にも負けず、雪の寒
さにも負けず、百日間、毎晩丘越え、山越えて私の家に通え
というものだった。ただし、家に入ってはいけない、当然声
をかけてもいけない。ただ黙々と百晩通えというものだった。
それでも深草少将は稀代の美女を自分のものに出来るならば
と…いうより、もっと純粋に小町に恋したのだろうね。とに
かく、酷い天候でも通ったのだという。

しかし小町は約束通り、声一つもかけずにいたのだと。わかっ
ていながら、これは男にとって辛いもの。せめて途中に一言あ
れば、まだまだ頑張れるものの。こういう仕打ちをされても約
束だからと頑張ったが、深草少将の心の中に一抹の不安もあっ
たのだろう。さて最後の百日目!という時に、バタリと倒れて
しまい死んでしまったのだった。嬉しさの裏側にある『もしも
拒絶されたら…。』という不安が心を苦しめ、心拍が異常に高
まり、多分不整脈の影響で死んでしまったのだろう…本当か?

しかし、この深草少将の気持ちはわかる。どこまで信じていい
かわからないからだ。信じるという一念をどこまで持続できる
かだが、やはりそこは人間の心。どこかで脆いものがある。

さて小町だが、冷酷な女性なのか?と思えば、さにあらず。実
は、この深草少将の百夜通いも、家の中でじっと満願する事を
願っていたという。しかしそれは、小町自身の夢で作り上げた
もの。他人にとって、これほどの仕打ちは無かったと思う。自
分の頭に浮かぶ夢は理想であっても、現実では無いからだ。

夢といえば…小町は有名な「夢の歌」をいくつか残している。


思いつつ寝ればや人の見えつらむ

           夢と知りせばさめざらましを



「恋慕いながら寝てしまったら、あなたが夢に現れました。し
 かし愚かにも目覚めてしまい。夢と知っていたら眼を覚めず
 にいたものを。」(簡単訳)


うたたねに恋人を見てしより

            夢てふものはたのみそめてき



「うたた寝したら、恋しいあなたを見ました。あなたも、わたし
 を想ってくたさっているのね。また逢えるのなら、益々夢を頼
 りにしてしまいます。」(簡単訳)


かぎりなき思ひのままに夜も来む

           夢路をさへに人はとがめじ



「夜に女から出向くのは許されない事ですが、夢の中なら私から
 あなたの元へ参りましょう。夢路の事ですから、誰も咎める人
 はいないでしょう。」(簡単訳)


こうして見ると、小野小町とは、とても少女趣味だと思う。時に
は可憐に、時には大胆な少女の歌を詠んでいる。しかし、これは
あくまでも独りよがりであり結局、自分の中に作り出した想いの
人に恋し、夢見ているよう。その法則や基準は、あくまで小町本
人しかわからないもの。「心通じていれば…。」「信じていれば…。」
相手はそれだけでわかると思っている小町の心は、まるで純粋な
少女であり、ある意味、相手の気持ちなどをわからない純粋な残
酷さを持っている。だから深草少将の悲劇が起きたのだろう。

後世に伝わる鬼婆となった伝説も、小町自身が異性の心を理解で
きない浮世離れした思考が、独身のまま老いさらばえて鬼婆にな
ってしまったという物語を作り出したのではないだろうか。小町
の浮世離れは、霊的な部分もあったらしい。小町の歌には言霊が
宿り、ある意味巫女的であると評判を呼んだらしい。そこである
日照りの年に帝から雨乞いの歌を詠んで欲しいと頼まれた小町は、
こういう歌を残した。

ちはやぶる神もみまさば立ちさわぎ

            あまのとがわの樋口あけたまへ


この歌の後に雨は降り、小町の霊的な名声は上がったという。し
かし、益々浮世離れしている存在にも思われたようだ。

素晴らしい美貌に恵まれ、素晴らしい歌を詠んだが為、周囲の男
どもが挙って寄って来た小町であるから、逆にそれが自分の世界
に籠らせる原因にもなったのでは?と思ってしまった。自分の心
の中で作り上げた”正しいもの””誠実なもの”をかたくなに信
じた小町であったからこそ、俗世間に染まった深草少将の心を折
り、その身を殺してしまったのだろう。とにかく、この深草少将
の物語は、小町の純粋なまでの心が異性に対し、とても残酷な結
果となった物語であると思う。いや、現実にもありそうだ…(^^;
# by stavgozint | 2010-02-25 19:39 | 古典の世界

「浅茅が宿(序章其の六)」

いにしへの真間の手児奈をかくばかり

     恋ひてしあらん真間のてこなを
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「浅茅が宿」の最後に記される歌が、上記の歌なのだが、
貞淑な宮木を思う勝四郎の心が、何故伝説の手児奈の歌で
終らせているのだろうか?ここに「浅茅が宿」の謎が隠さ
れているような気がする。

勝四郎の妻である宮木が、死ぬ間際に書き記した歌は下記の通り。


さりともと思ふ心にはかられて

     世にもけふまでいける命か


「新潮日本古典集成」での訳は…。


「それにても、夫がまもなく帰ってくるでしょう、と思う
 自分の心に騙されて、よくもまあ、この世に、今日とい
 う今日まで生きてきました、わたしの命よ。」



この宮木の歌に、手児奈の伝説を結び付けるには無理があ
るような気がするのだが。。。
# by stavgozint | 2009-06-15 20:23 | 「浅茅が宿」

「浅茅が宿(序章其の五)」

「浅茅が宿(序章其の五)」_c0105899_191742.jpg

上田秋成の癖として…例えば、磯良神とは神話上、醜い神
の代名詞であるのだが「吉備津の釜」において、貞淑な美し
い”磯良”という女性を作り上げた。

今回の「浅茅が宿」の”宮木”は貞淑な妻を演じているが、
「春雨物語(宮木が塚)」での”宮木”は遊女となっている。
まあだからといって「宮木が塚」の”宮木”は遊女でありな
がら、ふしだらな遊女とは言えず、心は美しい存在として
描かれている…。

また「浅茅が宿」に登場する伝説の手児奈は、誰とも結び
付く事の無く入水した「聖処女」として扱われているが、先に
記したように「手児奈」とは遊女としての名称でもあった。

ところが「手児奈」とは別に、似たような存在として「菟原処女」
という、やはり少女がいる…。

摂津国菟原郡に住んでいたという伝説上の人物で、二人の
男性から求婚され、悩んだ果てに自殺したという女性で「万
葉集」などで詠われる”聖処女”で、これはやはり先に紹介
した”櫻児”と似たような話の伝説の少女となる。
# by stavgozint | 2009-06-15 19:18 | 「浅茅が宿」

「浅茅が宿(序章其の四)」

ところで遊女の歴史を調べると、白太夫やら、歩き巫女やら、
傀儡女と、似たような存在がいる事がわかる。

遊女は体を売ったのだが、遊女と同じく、歩き巫女もまた体を
売ったと伝えられる。

しかし、日常の夫婦間の性行為と違って、不特定の人との性
行為は、非日常の「ハレ」だという概念があるようだ。つまり、
歩き巫女との性行為とは「神婚」であり「聖婚」であったのだと。

笑い話に、女性の女陰に向って手を合わせ「菩薩様」と拝む
のと、同じ感覚である。実際、浄土宗の親鸞は、夢の中で救
世観音(救世菩薩)の化身と交わる内容を許す夢を見たとさ
れる。つまりこの「聖婚」「神婚」の具現化は、神に仕える
巫女との交わりであったのだと思われる。

歩き巫女は旅の途中、峠などの宿で頼まれて、旅人と交わっ
たという。これは何も、男の欲望のままというわけではなく、
先に記した「聖婚」「神婚」という意味があったらしい。

遊女や歩き巫女と同じく、傀儡女がいた。この傀儡女を称し
て、下記のように称したのだと。

「女は愁い顔で泣く真似をし、腰を振って歩き、虫歯が痛い
ような 笑いを装い、歌をうたい、淫らな音楽をもって、妖
媚を求める。 父母や夫や聟は、彼女らがしばしば行きずり
の旅人と、一夜の契 りを結んでも、それを構わない。身を
売って富んでいるので、金 繍の服・錦の衣・金の簪・鈿の
箱を持っているから、これらのも のを贈られても、異にせ
ず収める。」



傀儡子ではあるが、女は傀儡女とも呼ばれ、どちらかという
と遊女という扱いを受けているが、遊女と傀儡女の違いは歌
にあるようだ。遊女の条件は美声で美女であるのだが、傀儡
女の場合は、歌が上手で美声である事のようだ。

「更級日記」では傀儡女の歌を称して…。

「声すべる似るものなく、空に澄み昇りて、めでたく歌をうたふ。」

また…。

「声さへ似るものなく歌ひて、さばかり怖ろしげなる山中に立ちゆ
くを、 人々あかず思ひて皆泣くを、幼きここちには、まして此の
やどりを立 たむ事さへ飽かずおぼゆ。」
とある。

この「更級日記」の記述から読み取ればつまり、本来の傀儡女
とは、歌女なのだろう。それも、西洋の船人を惑わすセイレーン、
もしくはローレライのような歌の力を持った存在に等しかったの
だと思う。つまり傀儡女もまた”聖なる存在”であったのだと考える。
# by stavgozint | 2009-06-14 05:34 | 「浅茅が宿」