「浅茅が宿(序章其の四)」

ところで遊女の歴史を調べると、白太夫やら、歩き巫女やら、
傀儡女と、似たような存在がいる事がわかる。

遊女は体を売ったのだが、遊女と同じく、歩き巫女もまた体を
売ったと伝えられる。

しかし、日常の夫婦間の性行為と違って、不特定の人との性
行為は、非日常の「ハレ」だという概念があるようだ。つまり、
歩き巫女との性行為とは「神婚」であり「聖婚」であったのだと。

笑い話に、女性の女陰に向って手を合わせ「菩薩様」と拝む
のと、同じ感覚である。実際、浄土宗の親鸞は、夢の中で救
世観音(救世菩薩)の化身と交わる内容を許す夢を見たとさ
れる。つまりこの「聖婚」「神婚」の具現化は、神に仕える
巫女との交わりであったのだと思われる。

歩き巫女は旅の途中、峠などの宿で頼まれて、旅人と交わっ
たという。これは何も、男の欲望のままというわけではなく、
先に記した「聖婚」「神婚」という意味があったらしい。

遊女や歩き巫女と同じく、傀儡女がいた。この傀儡女を称し
て、下記のように称したのだと。

「女は愁い顔で泣く真似をし、腰を振って歩き、虫歯が痛い
ような 笑いを装い、歌をうたい、淫らな音楽をもって、妖
媚を求める。 父母や夫や聟は、彼女らがしばしば行きずり
の旅人と、一夜の契 りを結んでも、それを構わない。身を
売って富んでいるので、金 繍の服・錦の衣・金の簪・鈿の
箱を持っているから、これらのも のを贈られても、異にせ
ず収める。」



傀儡子ではあるが、女は傀儡女とも呼ばれ、どちらかという
と遊女という扱いを受けているが、遊女と傀儡女の違いは歌
にあるようだ。遊女の条件は美声で美女であるのだが、傀儡
女の場合は、歌が上手で美声である事のようだ。

「更級日記」では傀儡女の歌を称して…。

「声すべる似るものなく、空に澄み昇りて、めでたく歌をうたふ。」

また…。

「声さへ似るものなく歌ひて、さばかり怖ろしげなる山中に立ちゆ
くを、 人々あかず思ひて皆泣くを、幼きここちには、まして此の
やどりを立 たむ事さへ飽かずおぼゆ。」
とある。

この「更級日記」の記述から読み取ればつまり、本来の傀儡女
とは、歌女なのだろう。それも、西洋の船人を惑わすセイレーン、
もしくはローレライのような歌の力を持った存在に等しかったの
だと思う。つまり傀儡女もまた”聖なる存在”であったのだと考える。
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by stavgozint | 2009-06-14 05:34 | 「浅茅が宿」
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