さるにてもかの僧の鬼になりつるこそ、過去の因縁にてぞあらめ。
そも平生の行徳のかしこかりしは、仏につかふる事に志誠を尽せし なれば、其の童児をやしなはざらましかば、あはれよき法師なるべ きものを。 一たび愛慾の迷路に入りて、無明の業火の熾なるより鬼と化したる も、ひとへに直くたくましき性のなす所なるぞかし。 『心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る』とは、此法師がた めしなりける。老衲もしこの鬼を教化して本源の心にかへらしめな ば、こよひの饗の報いともなりなんかし」と、たふときこころざし を発し給ふ。 莊主頭を畳に摺りて、「御僧この事をなし給はば、此の國の人は淨 土にうまれ出でたるがごとし」と、涙を流してよろこびけり。山里 のやどり貝鐘も聞えず。廿日あまりの月も出でて、古戸の間に洩た るに、夜の深きをもしりて、「いざ休ませ給へ」とて、おのれも臥 所に入りぬ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >無明の業火 永く身を苦しめる煩悩の炎であって、無明とは希望無き明りとでも 訳するのだろうか。無明とか無常、無情など「無」が付く漢字は、 通常の意味に相反する場合が多い。 ただ無心となると、心は邪なものを考える?ので、無の心は邪心の 無いものと、やはり逆になってしまうのか。。。 つまり人間の常と相反してしまった為に、阿闍梨は鬼となった。 そしてその鬼となった根底には阿闍梨の強い心があった。 >ひとへに直くたくましき性のなす所なるぞかし。 この訳には、自分が読んでいる「新潮日本古典集成」では…。 *「本気で強気な性質。「直く」は、古代人に憧れた秋成が、常に 理想とした性格である。」とある。 古代人に憧れた秋成というものを、自分はわかっていない。それだ け全ての作品を読み切っていないという証拠だ。しかしこの「青頭 巾」において、無明の業火に焼かれつつも、阿闍梨が強い心を持っ て鬼となった事を、秋成は憧れていたのだろうか?ここが謎である。 >『心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る』 心を欲望のまま開放すれば、妖魔となってしまう。人間であれば、 その欲望を開放せずに、押さえ込もうという力が働くものだと言っ ているようなものだが、先程の”無明”では無いが、相反する事柄 の場合、その人なりの力を要するものだ。つまり”無明”とは、永 く身を苦しめる煩悩の業火なのだが、その身を苦しめる場所に身を 投げ出す行為そのものが秋成にとっての憧れた力だったのだろうか? 実は、たんたんと物語が進む中にちりばめられた、上田秋成の謎が 潜んでいる。いったい上田秋成は、どういう心情でこの「青頭巾」 を書き上げたのだろう?
by stavgozint
| 2008-06-29 20:18
| 「青頭巾」
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