カテゴリ:古典の世界( 3 )

小野小町と深草少将

世界三大美女に数えられる小野小町だが、様々な伝説が付随
する為に、本当に実在したかどうかもよくわからない。しか
し。残した歌は残っているので、歌を残した女性の存在は確
実なのだろう。

恋多き女などのレッテルを張られながら、最終的には鬼婆に
なったという伝説まで残る小野小町とは?と考えてみた。と
にかく、美女であるからワンサカと男が小町の元へと寄って
来たという。しかし小町は、こういう歌を残した…。


見るめなきわが身をうらとしらねばや

            かれなであまのあしたゆく来る


【適当訳】

「逢えない私の身である事を御存じ無い為、疲れも構わずに
 来るのでしょうが、熱心に来れば来るほど、私は辛くなる
 のです。」

この歌こそ、まさにモテる美女そのものを詠った歌だと思う

しかし、こうした小町の男をはねのける歌にもめげない男が
いた。そう、伝説となった深草少将である。とにかく、小町
に対して、しつこいというか…熱心だったのだろう。そこで
小町は、深草少将に対して、厳しい条件を付ける。ただし、
この条件を付けたというのは、小町の中で『この人なら…。』
という想いがあってのものだったようだ。

して、その条件とは、雨にも負けず、風にも負けず、雪の寒
さにも負けず、百日間、毎晩丘越え、山越えて私の家に通え
というものだった。ただし、家に入ってはいけない、当然声
をかけてもいけない。ただ黙々と百晩通えというものだった。
それでも深草少将は稀代の美女を自分のものに出来るならば
と…いうより、もっと純粋に小町に恋したのだろうね。とに
かく、酷い天候でも通ったのだという。

しかし小町は約束通り、声一つもかけずにいたのだと。わかっ
ていながら、これは男にとって辛いもの。せめて途中に一言あ
れば、まだまだ頑張れるものの。こういう仕打ちをされても約
束だからと頑張ったが、深草少将の心の中に一抹の不安もあっ
たのだろう。さて最後の百日目!という時に、バタリと倒れて
しまい死んでしまったのだった。嬉しさの裏側にある『もしも
拒絶されたら…。』という不安が心を苦しめ、心拍が異常に高
まり、多分不整脈の影響で死んでしまったのだろう…本当か?

しかし、この深草少将の気持ちはわかる。どこまで信じていい
かわからないからだ。信じるという一念をどこまで持続できる
かだが、やはりそこは人間の心。どこかで脆いものがある。

さて小町だが、冷酷な女性なのか?と思えば、さにあらず。実
は、この深草少将の百夜通いも、家の中でじっと満願する事を
願っていたという。しかしそれは、小町自身の夢で作り上げた
もの。他人にとって、これほどの仕打ちは無かったと思う。自
分の頭に浮かぶ夢は理想であっても、現実では無いからだ。

夢といえば…小町は有名な「夢の歌」をいくつか残している。


思いつつ寝ればや人の見えつらむ

           夢と知りせばさめざらましを



「恋慕いながら寝てしまったら、あなたが夢に現れました。し
 かし愚かにも目覚めてしまい。夢と知っていたら眼を覚めず
 にいたものを。」(簡単訳)


うたたねに恋人を見てしより

            夢てふものはたのみそめてき



「うたた寝したら、恋しいあなたを見ました。あなたも、わたし
 を想ってくたさっているのね。また逢えるのなら、益々夢を頼
 りにしてしまいます。」(簡単訳)


かぎりなき思ひのままに夜も来む

           夢路をさへに人はとがめじ



「夜に女から出向くのは許されない事ですが、夢の中なら私から
 あなたの元へ参りましょう。夢路の事ですから、誰も咎める人
 はいないでしょう。」(簡単訳)


こうして見ると、小野小町とは、とても少女趣味だと思う。時に
は可憐に、時には大胆な少女の歌を詠んでいる。しかし、これは
あくまでも独りよがりであり結局、自分の中に作り出した想いの
人に恋し、夢見ているよう。その法則や基準は、あくまで小町本
人しかわからないもの。「心通じていれば…。」「信じていれば…。」
相手はそれだけでわかると思っている小町の心は、まるで純粋な
少女であり、ある意味、相手の気持ちなどをわからない純粋な残
酷さを持っている。だから深草少将の悲劇が起きたのだろう。

後世に伝わる鬼婆となった伝説も、小町自身が異性の心を理解で
きない浮世離れした思考が、独身のまま老いさらばえて鬼婆にな
ってしまったという物語を作り出したのではないだろうか。小町
の浮世離れは、霊的な部分もあったらしい。小町の歌には言霊が
宿り、ある意味巫女的であると評判を呼んだらしい。そこである
日照りの年に帝から雨乞いの歌を詠んで欲しいと頼まれた小町は、
こういう歌を残した。

ちはやぶる神もみまさば立ちさわぎ

            あまのとがわの樋口あけたまへ


この歌の後に雨は降り、小町の霊的な名声は上がったという。し
かし、益々浮世離れしている存在にも思われたようだ。

素晴らしい美貌に恵まれ、素晴らしい歌を詠んだが為、周囲の男
どもが挙って寄って来た小町であるから、逆にそれが自分の世界
に籠らせる原因にもなったのでは?と思ってしまった。自分の心
の中で作り上げた”正しいもの””誠実なもの”をかたくなに信
じた小町であったからこそ、俗世間に染まった深草少将の心を折
り、その身を殺してしまったのだろう。とにかく、この深草少将
の物語は、小町の純粋なまでの心が異性に対し、とても残酷な結
果となった物語であると思う。いや、現実にもありそうだ…(^^;
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by stavgozint | 2010-02-25 19:39 | 古典の世界

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遠野の桜は、多分4月20日頃に咲くと思うけど、全国ではもう既に、
チラホラと桜の便りが届いてきている。

ところで馬肉は別名「桜肉」とも呼ばれ、この由来には諸説様々だ。
馬肉を切った後、馬肉は空気に触れると桜色になるという説がある。

また馬肉は桜の咲く4月から5月にかけてが、一番おいしいからとい
うからという説もある。これは夏の青草ばかりを食べた馬の肉は水っ
ぽくて美味くないのだと。それより、冬の間に干し草や殻類を沢山食べ
て肥え、脂がのった馬肉は美味しいという。

ところで、奈良県の吉野の奥に丹生川上神社中社という、水神を祀っ
ている神社がある。この神社には古来から雨乞いが必要な時、もしくは
大雨が続く場合には、馬が献上される慣わしがあったのだと云う。雨が
必要な時には黒い馬が献上され、晴れ間を必要とする時は、白い馬が
献上されたのだと。

この時馬は、神社の下を流れる丹生川の"馬背"という場所で桜の木に
結び付けられ洗い清め"馬谷"という場所に放たれたのだという。

この"儀式"は、応仁の乱の頃に途絶えてしまったそうだが、その後には
代わりに"藁の馬"に、黒い布か白い布を着せて献上するようになったのが
江戸時代まで続いたのだと。

江戸時代の童謡に「咲いた桜になぜ駒つなぐ」というのがあり、この
吉野の丹生川上神社の風習が残っておりそこからきているでは?という
事らしい。

馬は「桜」であり、猪は「牡丹」、鹿を「紅葉」と呼ぶ様に、動物の肉を隠語
で呼ぶのは、江戸時代に仏教の影響で殺生には厳しく、獣肉を公に食べ
る事ができなかったから、その"代用語"として生まれたのだというが、馬
と桜の結び付きは、吉野から伝わったものなのだと。
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ところで八十禍津日神と呼ばれた瀬織津姫は滝と水の化身でもあり、
その水を同時に奉っている桜の化身でもある。伊邪那岐命が黄泉の
国から帰還し最初に現れた瀬織津姫は、死者という冥界をも司る。

常に生と死の狭間に存在し、天照の対比と成す神である。

そしてこの瀬織津姫は、早池峰神社を中心に、岩手県に多く祀られ
ている。桜の木下には死体が埋まっている…などという迷信は、常
に冥界を意識せざるおえない、瀬織津姫の存在があるからだ。


呪いの藁人形(恋に破れた乙女の呪い行為)の物語】


森の神々はお気に入りの桜・松・杉に傷が付くのを大変嫌っているが、
この弱みに付け入る事によって恋に破れた乙女は恨みを晴らす…。

乙女は、あたかも男をくどきに出かけるかのように着飾って真夜中、三
本の火をつけたロウソクを頭の被り物につけて、首にひとつの鏡をかけ
る。左の手には、裏切った男に似せて作った藁人形右の手には金槌と
釘を手にしている。

それから神社仏閣などの木々の中で、人形を桜の木に打ちつけて、神
仏に裏切った男の命を奪ってくれと願をかける。

「事が成就したら、この釘を抜いてさしあげます。それ以上は桜の木
と神仏を困らせるような事はいたしません。」



と約束する。数晩にわたって神域である杜へと向かい、そのたびごとに
釘を一本打ち込んで祈りを繰り返す…。

そう、基本的な呪いの藁人形は、神を脅すという行為なのである…。

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花の色はうつりにけりないたづらに 

     我が身世にふるながめせしまに




小野小町の歌のように、愛であれ罪であれ呪いであれ、平安
の人々は桜に我が身や心、そして想いを移した。

生まれてきた子供を守る為、出生と共に庭に桜の木を植える
風習が行われた。桜の木は元々、人の厄災を吸い込んでくれ
ると思われていた。雛人形の発生と、同じ考えである。

目(芽)歯(葉)鼻(花)指(細枝)耳(実)腕(枝)

頭(梢)胴(幹)足(根)



木は、必ず人間の体と対比させて名称が付いたという。 だ
から”木”は、人間の”気”と同じものとして付けられた名
称である。

そして桜の樹齢は、人間の寿命に近いものとされた。だから
こそ桜は人の移し身として、様々な役割をしている。
った。

先に記述した、呪いの藁人形の行為もしかりである。桜は、
いろいろなものを、身に纏う…。
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桜と共に散りぬる(冬桜)


伊予の国には、一人の男が命を捧げてまで桜の花を咲かせ
ようとした。男は武士であり、子供時代にその桜の木の下で
よく遊んだものだという。大人になってからも、毎年4月には
任務の無いときには桜吹雪のの中に腰を下ろしていたもので
あったという。

月日がたち、長寿を得たその男は高齢に達したが、妻も子達
も、親類縁者も、ことごとく死んでしまい独りになっていたという。
男と過去を結んでいたものはただ、その桜の木ばかりであった。

ある年の夏、その桜の木が枯れてしまった。この出来事の中に、
男は自然が何を自分に欲求しているか悟ったという。他の人々は、
姿の良い若木を枯れた桜の木の傍に植えたので、喜んでいたが、
男は辛い思いをしていた。

冬が訪れた時であった。枯れた枝の下で男は、頭を下げて桜に
言った。

「敬愛すべき桜の木よ、もう一度花を咲かせてくだされ。ただ今より、
拙者の命を差し上げ申す故・・・。」



それから男は、地面に白地の布を敷き詰め切腹したという。流れ
出た血は桜の根に染み込み、男の命が桜に乗り移り、冬ではある
が桜の花が咲いたという。そしてその桜の木は、毎年地面で雪が
白くなっても、男の命日の為に咲いていると云う・・・。
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 櫻児の伝説


昔、一人の乙女がいた。名前を、櫻児と言ったという。当時、二人
の若者がいて、二人ともこの娘に結婚を申し入れていたという。
それ故、この若者二人は命を捨てて争い、死をも顧みずに挑み
あっていたという。ところがその争いを見て娘はすすり泣き、


「昔から今に至るまで、一人の女の身で二人の男に嫁ぐという事を
聞いた事も見た事もない。今となっては、二人の男の人の心を和ら
げる事も難しい。ならば私が死んで、二人の争いを永遠に止めさせ
る以外にはない・・・。」



と、そうして櫻児は林の中に死に場所を求め、桜の木に首をくくって
死んだという。その二人の若者は、悲しみに耐えることができずに、
血の涙は衣の襟に零れ落ち、それぞれ二人は櫻児に思いを込めて、
歌を詠んだという。


* 春さらば 挿頭にせむと わが思ひし 櫻の花は 散りにけるかも
(春になったら髪に挿そうと私が思っていた櫻の花は、今はもう散って
いってしまったことだ。)


* 妹が名に 懸けたる櫻 花咲かば 常にや恋ひむ いや毎年に
(あの娘の櫻児という名にゆかりの花が咲いたのなら、これからは毎年
のように恋に慕うことになるであろうか。)
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桜に心を移したという事では、西行法師が有名だ。


花に染む心のいかで残りけん 

          捨てはててきと思ふわが身に



出家したばかりで、桜への思いを和歌に詠んでいる。西行の
桜への熱い思いが凝縮された歌として特に有名なのが…。



願わくば花の下にて春死なむ 

         そのきさらぎの望月のころ





川沿いには桜並木が多く、桜は根が深く沢山の保水力を備えている
為か、川が氾濫し多くの死者が出た後に日本人は多くの桜の木を植
えている。つまり、死者への鎮魂の意味をも備えていたのだろう。

いにしえからの人々の魂を吸い込んでいるからこそ、今でも桜は、そ
の妖しくも美しい花を咲かせ、人々の心を魅了しているかもしれない。
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by stavgozint | 2008-03-25 19:44 | 古典の世界

日本の古来には、夢文化があった。夢とは現実に関与するもの。
なので、良い夢を見るのに一生懸命だったふしがある。

夢のお告げにより、悟りを得た坊さんの話や、夢によってお宝
を得た話など沢山ある。

古来、蝶々は自分の魂の具現化の虫であり、寝ている間に鼻か
ら魂である蝶々がヒラヒラと抜け出して、行った事も無い土地
へ行って、お宝や美人などを探してくる。その夢を頼りに、初
めて行った場所でもデジャヴーと同じくその土地を理解し、そ
のお宝であったり、美人であったりと遭遇するというもの。



また小野小町の歌にも、いくつかの夢の歌がある…。



* うたたねに恋ひしき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき

* 思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを

* かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ




最後の歌の解釈は平安の当時、夜に女から殿方の元へ出向くという
のははしたなく許されないものだったが、夢であるなら私の方から
参りましょうという大胆な歌で、当時としては衝撃的な歌だったら
しい。



ところが古代ローマになると、夢スパイというのが存在し、当時の
民衆の夢を管理していたのだと…。

古代日本でも、古代ローマでも、夢というものは現実になりえるも
のと認識されていたようだ。

古代ローマでは庶民の間に溶け込んだ夢診断をする人物がいて、そ
の当時の人々の夢を聞いて判断し、危険な夢と判断した場合は国家
へ報告し、その危険な夢を見た人物は投獄されたり、処刑されたと
云う。

考えてみると最もな話で…夢というのは、その人の持つ潜在意識の
具現化みたいなもの。エッチな妄想に取り憑かれている人物は淫靡
な夢をよく見る筈だし、それこそ国家転覆を願っている者は、当然
その当時の国家に対する不満などが夢として具現化するものだ。

夢というのは在り得ないものではなくて、その人物の頭の中身を示
すものだから、古代ローマで夢診断が普及したのは当然の結果なの
かもしれない。

現代では、夢は夢でしかないというけれど、やはり自分の持つ不安
や願望が夢に現れるので、夢診断というのは、その人物を知るには
有効な手段だと思う。
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by stavgozint | 2008-01-17 09:48 | 古典の世界