カテゴリ:「青頭巾」( 27 )

「青頭巾」【補足】

真言立川流というのがある。醍醐天皇も信仰していた邪教で、
歴史から抹消されたのは徳川時代になってからだ。

その真言立川流の奥義は、男女の性交と肉食にあるという。
そしてその発生は”仁寛阿闍梨”に行き着く。
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by stavgozint | 2008-10-21 22:58 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其の六)

故の密宗をあらためて、曹洞の霊場をひらき給ふ。今なほ御寺は
たふとく栄えてありけるとなり。
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阿闍梨のいた寺は真言密教、いわゆる東密と呼ばれた密教寺だった。
それがこの「青頭巾」では、曹洞宗に改宗となった話にもなってい
る。

江戸時代(元和元年 1615年)幕府に保護され永平寺が総本山
となってから、曹洞宗がかなり普及した。白山信仰の元となってい
る白山を永平寺が鎮守神と守護神を、白山権現に定めたのも普及に
拍車をかけたのかもしれない。白山信仰の盛んな東北においては、
それを崇める曹洞宗は、親しみやすく感じたのかもしれない。その
為、東北には現在、沢山の曹洞宗が存在する。

ところで真言密教といえば空海。空海といえば即身仏が有名で、阿
闍梨の最後の姿は、即身仏を思い起こさせるものであると思う。

快庵禅師の「江月照松風吹 永夜清宵何所為」という問いに対し、
阿闍梨は肉体が滅んでも尚、魂が「江月照松風吹 永夜清宵何所為」
という言葉を唱えていたのは、即身仏になったという証なのだと思
う。それを成仏させたのは、紛れも無い曹洞宗である快庵禅師の力。
つまりこの「青頭巾」の話は、衰退し始めた真言宗に更に追い討ち
をかけた話と考えるのは極端だろうか?

密教系…つまり天台宗でも真言宗でも、裏では酒を飲み、女を侍ら
せていたという。だから、織田信長が天台宗である延暦寺を焼き払
い、豊臣秀吉までもが真言宗の総本山を焼き討ちしたのは、堕落に
あった。

「青頭巾」の阿闍梨もまた真言密教の坊主でありながら、美少年に
愛欲という煩悩を持ち込んで鬼になったというのは、密教系の堕落
を現す為の手段として上田秋成が、この物語に持ち込んだものと思
われる。
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by stavgozint | 2008-10-19 17:07 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其の五)

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禅とは、自らの仏体験だという。つまり水を説明しても濡れない。
火を説明しても、熱くない。食べ物を説明しても、空腹は満たさ
れない。端的に言えば百聞は一見に如かずだ。自ら禅という行為
をする事によって、内部に存在する仏を探りだせるというもの。

例えば日蓮宗が"他力本願"と呼ばれるのに対し、曹洞宗は"自力本
願"と呼ばれる。曹洞宗側に言わせれば、いくら題目を唱えようと、
いくら書物を読み漁ろうと、自らの体験に基くものにはかなわない
というもの。

宇宙の真理を知りたいファウスト教授は、メフィスト・フェレスに
連れられて、不思議な旅という実体験をし、魂は召された。

また阿闍梨は、自らを見つめず愛欲に耽り、六道に堕ちた。しかし、
快庵禅師によって自らの仏を見つめる体験を成し、導かれた。

「青頭巾」の最後の方に「初祖の肉いまだ乾かず」という快庵禅師
を褒め称える言葉が紹介されているが、これは達磨大師が、まだ死
なないでいる如く、その法は生々しく生きているという意味に快庵
禅師もまた…という意味だ。つまりこれは、真理は巡り巡るものと
される意でもある。曹洞宗では、円を意識している。輪廻転生では
無いが、この言葉は巡りめく真理は永遠に巡っているとの例えとも
感じ取れる。
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by stavgozint | 2008-10-16 21:21 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其の四)

>私は琴を手にして柔らかい草花が

>波打つ道を彷徨する

>おお美よ!

この王維の詩の一遍にはゲーテの「ファウスト」での一言…。

「時よとまれ!おまえは美しい!」


この言葉に受け継がれているのだろう。奇しくもゲーテと上田秋成は、
同じ時代を生きた人間だ。若干、上田秋成の方が15年ほど年上では
あるが、同じ中国の思想に触れ、それを自らの作品に反映させている
点は同じなのだろう。

自然には、エロスとタナトスが渾然一体としている。常緑樹である松
は、常に緑を保っていると思われているが、その命はいつか尽きる。
また月は日々変化しながら天空を渡るが、それは永遠的だ。

「江月照松風吹 永夜清宵何所為」の言葉に現される、永い清らかな
宵は永続的であるが、そこには目に見えぬエロスとタナトスが渾然
一体となっている。そこに気付けば、その美しさを理解できるのだと
思う。ファウスト教授の夢のような旅も、「青頭巾」で示された「江
月照松風吹 永夜清宵何所為」
という言葉も、エロスとタナトスに満
ち溢れている。

ファウスト教授は「時よとまれ!おまえは美しい!」という言葉を発
したら、悪魔であるメフィスト・フェレスに魂を奪われてしまう。

また阿闍梨もまた「江月照松風吹 永夜清宵何所為」の意味を悟り、
魂は昇華された。

つまりファウストも阿闍梨も、この世に渾然するエロスとタナトスの
融和の美を知り、その美しさに魂を奪われ「お前は美しい!」と悟っ
たのだと考える。
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by stavgozint | 2008-10-14 17:54 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其の三)

禅師の示した「江月照松風吹 永夜清宵何所為」とは「証道歌」という、
唐の永嘉玄覚大師(665~713)が禅の要諦を一種の詩の形で端的
に表現した古典であり、その内容は自然との対話みたいなものである。

ところでマーラー「大地の歌」に使用された詩は、王維、李白、孟浩然
という、やはり自然との対話など、自然詩と呼ばれるものを作り上げて
きた人物達で、とりわけ大地の歌の六楽章で使用された王維は、自然
詩人の中でも際立った存在だ。

時代的にも7世紀後半から8世紀にかけて活躍してきた人物達である
から、証道歌の時代とも同じである。要は、中国の唐代にこういった自
然との対話を詠うものが流行っていたのだろう。マーラーはこの唐代の
詩人達の詩に感動し、感銘を受け、曲に現した。

マーラーの作曲の根底には”死への不安と生への渇望”が織り込まれ
ている。そして「大地の歌」ではその帰結を、自然との同化として現して
いる。悲しみが深ければ深いほど、白日の下に晒され、大自然に帰す
ものがマーラーの「大地の歌」である。
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by stavgozint | 2008-10-14 06:58 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其のニ)

夕陽は山並みに沈み 冷え冷えとした渓谷に

暗い闇が忍び降りてくる

見よ!月が蒼い天空に 銀の小船のように
昇っていく

そして私は松の暗い木陰に立って涼しい
夕風を一人身に受けている

小川のせせらぎが夕闇に響き渡り

花は夕映えの微光に色を失う

大地は安らぎと眠りの中に沈んでいき

その時から全ての憧れが夢見はじめる

生きることに疲れた人間は

過ぎ去った幸福と青春とを

眠りのうちに蘇らそうと家路につく

鳥は静かに木の枝に休んでいる

世界は眠りに落ちたのだ!

松の木陰に冷え冷えと風が吹き

私は最後の別れを告げる為に

木の下で友を待ちわびる

友よ、君が来れば

この美しい夕映えを共に愛でよう

君は何処にいるのか?

私は一人ここに佇んで君を待ちわびている

私は琴を手にして柔らかい草花が

波打つ道を彷徨する

おお美よ!

永遠の愛と生命とに酔いしれた世界よ!

友は馬を下りて別れの酒盃を差し出す

そして私は君に尋ねる

「君は何処に行くのか?また何処に?」と。

私は愁いを帯びて口を開く

「友よ、この世に私の幸福は無かった。
 私は一人寂しく山に彷徨い入る」

「疲れ果てた孤独な魂に永遠の救いを求めて
 今こそ故郷へ帰っていくのだ。私は心静か
 にその時を待ちうけている。」

しかし春になれば愛する大地は再びいたる
ところに花が咲き乱れ樹々は緑に覆われて

永遠に世界の遠き果てまでも青々と輝き渡る

永遠に.....永遠に.....

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そしてこれが日本語に訳した詩。元々は中国の王維などの詩を
マーラーが切り貼り?したものですだ。
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by stavgozint | 2008-10-12 12:42 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其の一)

「江月照松風吹 永夜清宵何所為」
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快庵禅師が阿闍梨に与えたこの言葉…。

訳すれば「入り江には清らかな月の光が差し、松吹く風は
爽やかな声を立てている。この永い夜の清らかな宵の景色
は、何の為にあるのか。」


ところで全くの的外れかもしれないが、この「江月照松風吹
永夜清宵何所為」を読んで思い出したのは、グスタフ・マー
ラー作曲「大地の歌(6楽章)」だ…。
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Die Sonne scheidet hinter dem Gebirge,

In alle Taler steigt der Abend nieder
Mit seinen Schatten,die voll Kuhlung sind.

O sieh! Wie eine Silberbarke schwebt
Der Mond am blauen Himmelssee heraut.

Ich spure eines feinen Windes Wehn Hinter
den dunklen Fichten!

Der Bach singet voller Wohllaut durch
dass Dunkel.

Die Erde atmet voll von Ruh und Schlaf.

Alle Sehnsuchtwill nun traumen.

Die muden Menschen gehn heimwarts,Um im
Schlaf vergessnes Gluck Und Jugend neu
zu lernen!

Die Vogel hocken still in ihren Zweigen.

Die Welt schlaft ein!

Es wehet kuhl im Schatten meiner Fichten.

Ich stehe hier und harre meines Freundes.

Ich harre sein zum letztten Lebewohl.

Ich sehne mich, o Freund, an deiner Seite

Die Schonheit dieses Abends zu geniessen.

Wo bleibst du? Du lasst mich langallein!

Ich wandle auf und nieder mit meiner Laute

Auf Wegen, die von weichem Grase schwellen.

O Schonheit! O ewigen Liebns-Lebens-trunkne
Wwlt!

Er stieg vom Pferd und rechte ihm den Trunk

Des Abschieds dar. Er fragte ihn,wohin
Er fuher und auch warum es musste sein.

Er sprach, ud seine Stimme war umflort:Du,
mein Freund,

Mir war auf dieser Welt das Gluck nicht hold!

Wohin ich geh? Ich geh ich wandre in die Berge.

Ich suche Ruhe fur mein einsam Herz

Ich wandle nach der Heimat! Meiner Statte.

Ich werde niemals in die Ferne schweifen.

Still ist mein Herz und harret seiner Stunde!

Dieliebe Erde alluberall bluht auf im Lenz und grunt

Aufs neu! Alluberall und ewig blauen licht die Fernen!

Fwig ....fwig.....

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ちなみに…ウムラウト無しで書き記しましただ。。。

とにかくこれがマーラーの「大地の歌(6楽章)」のドイツ語による詩。
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by stavgozint | 2008-10-12 11:38 | 「青頭巾」

「青頭巾」展開部其の六

禅師いふ、「里人のかたるを聞けば、
              汝一旦の愛欲に心神みだれしより…」
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…とある。心神と書き記し「こころ」と読む。そういえば、人には神が
宿っていたというのを思い出した。それとは別に、仏が宿るとはなか
なか言わないものだ。

よく坊主が本地垂迹を示す場合「樹木には神が宿る。その樹木から
仏像を彫るのであるから、仏と神は同じである。」というような言い方
で、布教に勤めた話がある。

ただ実際、神が宿るのは樹木だけではなく、人間にも宿る。例えば
”頭”もそうだ。元々”頭”は”天の霊(あまのたま)”とも呼ばれ、人間
の頭に天の霊が降りたものだ。それはつまり、神が頭に降臨したもの
に等しい。

心とは何ぞや?と問えば、頭を差す場合と心臓を差す場合があると
いうが、ようは心の事を言っている為だ。つまり心は神が宿っている
もの。

正確に言えば、神が与えたものが宿っているものが心なのかと思っ
てしまう。

ここでの快庵禅師の言葉として使われた心神(こころ)は、そのまま
心というものを上田秋成の時代の人々が感じていた事なのだろう。
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by stavgozint | 2008-10-11 22:09 | 「青頭巾」

「青頭巾」展開部其の五

禅師が前を幾たび走り過ぐれども、更に禅師を見る事なし。堂の方に
駆りゆくかと見れば、庭をめぐりて躍りくるひ、遂に疲れふして起き
来らず。
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「耳なし芳一」では、全身にお経を書き記して、亡者から発見されぬ
ようにした。また「太平百物語」では、一晩中読経する事により化け
物から逃れた。「怪談とのゐ袋」では、気配を絶って怪物から助かる
話。いずれも背景には信仰の力というものがあるのだが、この「青頭
巾」の場合は、気配を絶ち、自然に溶け込む事によって魔から逃れた
となるのだろうか。ただ後半に示される言葉「江月照松風吹 永夜清
宵何所為」にかかってくるのだと思う。

ところで日本の曹洞宗開祖である道元は、ただひたすらに坐る事を重
視した。何かの功徳や利益を得る為に坐るのではなく、ただ坐る事に
打ち込む事であると。つまりこれは、ただそこに座すという事であり、
そこには自我が消え去るという事ではないのだろうか?鬼となった阿
闍梨という存在は、欲望の権化であり、動的存在だ。それと相対する
快庵禅師は、ただひたすらに風景と化した。

鬼をもって鬼を制すという言葉があるが、これは鬼になるからこそ、
そのものの邪心が目に付くからなのだと思う。ところが自らに纏うも
の全てを脱ぎ捨てて自然に帰るというものは、その風景に溶け込む
ものであるから、阿闍梨には見えなかったのだろう。
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by stavgozint | 2008-10-09 17:15 | 「青頭巾」

「青頭巾」展開部其の四

夜更けて月の夜にあらたまりぬ。影玲瓏としていたらぬ隈もなし。
子ひとつとおもふ此、あるじの僧眠蔵を出でて、あわただしく物
を討ぬ。たづね得ずして大いに叫び、「禿驢いづくに隠れけん。
ここもとにこそありつれ」と…
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月の出と共に、阿闍梨は鬼に変貌した。ここをどう捉えるかだ。
月に関する伝承は、古今東西に広がりを見せる。


*月の軌道が狂ったのだ。いつもよりずっと地球に近づいたので、
 人間どもが狂いだしたのさ。   シェイクスピア「オセロー」

*魔物に憑かれて生じる精神錯乱。怏々として楽しまない鬱病。
 月にうたれて生ずる狂気…。      ミルトン「失楽園」


月が、人の狂気を導き出すものと信じられていた。「竹取物語」でも、
「月の顔を見るのは忌むべきことだ。」とある。つまり、平安の世で
は、月を眺めるのは不吉だという意識があったのだろう。何故かと言
うと、それは人間としての”死”をもたらすものという意識がある為
だったのだろう。

岩手の俗信に「月の光を浴びながら寝ると、寿命が縮まる。」という
のがある。月の光が、なんらかの影響を人間に与えているものという
意識はずっと伝えられてきたのかもしれない。

今では殆ど見られなくなったが、大正時代までは欧米のハロウィンの
ように子供らが近所の家々を回って供え物などを貰い歩くという風習
もあったというのは、もしかしてキリスト文化が日本国に混入されて
いた為なのかもしれない。

そして思う…もしかしてこれは日本版「禿山の一夜」だったのではな
いのか?
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by stavgozint | 2008-07-31 20:05 | 「青頭巾」