「徒然草第三十三段」

雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、
雪のこと何ともいはざりし返事に、「この雪いかが見ると一筆のたまは
せぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるる事、聞きいるべきかは。
かへすがへす口をしき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。

今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。

                             「徒然草第三十三段」
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吉田兼好は、雪の降った日に、手紙をしたためたのだが、簡潔に
用件だけを書いたのを批判されている。

せっかくの雪を、どんな風に感じと見ているか、という事を一筆書
かないというのは、趣の無いひねくれもので、そんな方の言う事
など、どうして承知できるのか?という話が記されている。

手紙とは、離れた同士のやり取りで、ましてや平安時代となると、
その手紙こそが、いろいろな情景を映し出す玉手箱だったのだと
思う。

現代になれば、天気予報を見るだけで、日本中、世界中の天気
が一目瞭然となる。ところが、平安時代はそれさえもわからない。
そんな時代だからこそ、手紙をしたためている時の情景描写を欲
するのだろう。これは現在でも生きており、その時の季節と気候を
現して、本題に入るという手法は、やはり趣のあるものなのだろう。

友から、たまにメールが来る「いだすか?」と。それに返信をする
「へい」と。なんと用件だけで、あっけない内容ではあるけれど、
マンネリ化すると面倒でもあるので、いちいち情景描写なんて打
ってられない…(^^;
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# by stavgozint | 2008-10-31 17:47 | 「徒然草」

じっとみつめる。。。

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あそぼうと  見つめる子犬に 声かけりゃ くものこちりて かける秋空
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# by stavgozint | 2008-10-29 19:36 | 遠野の秋

「青頭巾」【補足】

真言立川流というのがある。醍醐天皇も信仰していた邪教で、
歴史から抹消されたのは徳川時代になってからだ。

その真言立川流の奥義は、男女の性交と肉食にあるという。
そしてその発生は”仁寛阿闍梨”に行き着く。
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# by stavgozint | 2008-10-21 22:58 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其の六)

故の密宗をあらためて、曹洞の霊場をひらき給ふ。今なほ御寺は
たふとく栄えてありけるとなり。
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阿闍梨のいた寺は真言密教、いわゆる東密と呼ばれた密教寺だった。
それがこの「青頭巾」では、曹洞宗に改宗となった話にもなってい
る。

江戸時代(元和元年 1615年)幕府に保護され永平寺が総本山
となってから、曹洞宗がかなり普及した。白山信仰の元となってい
る白山を永平寺が鎮守神と守護神を、白山権現に定めたのも普及に
拍車をかけたのかもしれない。白山信仰の盛んな東北においては、
それを崇める曹洞宗は、親しみやすく感じたのかもしれない。その
為、東北には現在、沢山の曹洞宗が存在する。

ところで真言密教といえば空海。空海といえば即身仏が有名で、阿
闍梨の最後の姿は、即身仏を思い起こさせるものであると思う。

快庵禅師の「江月照松風吹 永夜清宵何所為」という問いに対し、
阿闍梨は肉体が滅んでも尚、魂が「江月照松風吹 永夜清宵何所為」
という言葉を唱えていたのは、即身仏になったという証なのだと思
う。それを成仏させたのは、紛れも無い曹洞宗である快庵禅師の力。
つまりこの「青頭巾」の話は、衰退し始めた真言宗に更に追い討ち
をかけた話と考えるのは極端だろうか?

密教系…つまり天台宗でも真言宗でも、裏では酒を飲み、女を侍ら
せていたという。だから、織田信長が天台宗である延暦寺を焼き払
い、豊臣秀吉までもが真言宗の総本山を焼き討ちしたのは、堕落に
あった。

「青頭巾」の阿闍梨もまた真言密教の坊主でありながら、美少年に
愛欲という煩悩を持ち込んで鬼になったというのは、密教系の堕落
を現す為の手段として上田秋成が、この物語に持ち込んだものと思
われる。
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# by stavgozint | 2008-10-19 17:07 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其の五)

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禅とは、自らの仏体験だという。つまり水を説明しても濡れない。
火を説明しても、熱くない。食べ物を説明しても、空腹は満たさ
れない。端的に言えば百聞は一見に如かずだ。自ら禅という行為
をする事によって、内部に存在する仏を探りだせるというもの。

例えば日蓮宗が"他力本願"と呼ばれるのに対し、曹洞宗は"自力本
願"と呼ばれる。曹洞宗側に言わせれば、いくら題目を唱えようと、
いくら書物を読み漁ろうと、自らの体験に基くものにはかなわない
というもの。

宇宙の真理を知りたいファウスト教授は、メフィスト・フェレスに
連れられて、不思議な旅という実体験をし、魂は召された。

また阿闍梨は、自らを見つめず愛欲に耽り、六道に堕ちた。しかし、
快庵禅師によって自らの仏を見つめる体験を成し、導かれた。

「青頭巾」の最後の方に「初祖の肉いまだ乾かず」という快庵禅師
を褒め称える言葉が紹介されているが、これは達磨大師が、まだ死
なないでいる如く、その法は生々しく生きているという意味に快庵
禅師もまた…という意味だ。つまりこれは、真理は巡り巡るものと
される意でもある。曹洞宗では、円を意識している。輪廻転生では
無いが、この言葉は巡りめく真理は永遠に巡っているとの例えとも
感じ取れる。
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# by stavgozint | 2008-10-16 21:21 | 「青頭巾」

月の草

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中秋の月の雫を含みたる草はむ馬の白くひかりて
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# by stavgozint | 2008-10-16 17:31 | 遠野の生き物達

スズメバチ

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刺すという言葉思えばスズメバチ羽音響けばおそるおそると
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# by stavgozint | 2008-10-15 08:02 | 遠野の生き物達

「青頭巾」終焉(其の四)

>私は琴を手にして柔らかい草花が

>波打つ道を彷徨する

>おお美よ!

この王維の詩の一遍にはゲーテの「ファウスト」での一言…。

「時よとまれ!おまえは美しい!」


この言葉に受け継がれているのだろう。奇しくもゲーテと上田秋成は、
同じ時代を生きた人間だ。若干、上田秋成の方が15年ほど年上では
あるが、同じ中国の思想に触れ、それを自らの作品に反映させている
点は同じなのだろう。

自然には、エロスとタナトスが渾然一体としている。常緑樹である松
は、常に緑を保っていると思われているが、その命はいつか尽きる。
また月は日々変化しながら天空を渡るが、それは永遠的だ。

「江月照松風吹 永夜清宵何所為」の言葉に現される、永い清らかな
宵は永続的であるが、そこには目に見えぬエロスとタナトスが渾然
一体となっている。そこに気付けば、その美しさを理解できるのだと
思う。ファウスト教授の夢のような旅も、「青頭巾」で示された「江
月照松風吹 永夜清宵何所為」
という言葉も、エロスとタナトスに満
ち溢れている。

ファウスト教授は「時よとまれ!おまえは美しい!」という言葉を発
したら、悪魔であるメフィスト・フェレスに魂を奪われてしまう。

また阿闍梨もまた「江月照松風吹 永夜清宵何所為」の意味を悟り、
魂は昇華された。

つまりファウストも阿闍梨も、この世に渾然するエロスとタナトスの
融和の美を知り、その美しさに魂を奪われ「お前は美しい!」と悟っ
たのだと考える。
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# by stavgozint | 2008-10-14 17:54 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其の三)

禅師の示した「江月照松風吹 永夜清宵何所為」とは「証道歌」という、
唐の永嘉玄覚大師(665~713)が禅の要諦を一種の詩の形で端的
に表現した古典であり、その内容は自然との対話みたいなものである。

ところでマーラー「大地の歌」に使用された詩は、王維、李白、孟浩然
という、やはり自然との対話など、自然詩と呼ばれるものを作り上げて
きた人物達で、とりわけ大地の歌の六楽章で使用された王維は、自然
詩人の中でも際立った存在だ。

時代的にも7世紀後半から8世紀にかけて活躍してきた人物達である
から、証道歌の時代とも同じである。要は、中国の唐代にこういった自
然との対話を詠うものが流行っていたのだろう。マーラーはこの唐代の
詩人達の詩に感動し、感銘を受け、曲に現した。

マーラーの作曲の根底には”死への不安と生への渇望”が織り込まれ
ている。そして「大地の歌」ではその帰結を、自然との同化として現して
いる。悲しみが深ければ深いほど、白日の下に晒され、大自然に帰す
ものがマーラーの「大地の歌」である。
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# by stavgozint | 2008-10-14 06:58 | 「青頭巾」

「青頭巾」終焉(其のニ)

夕陽は山並みに沈み 冷え冷えとした渓谷に

暗い闇が忍び降りてくる

見よ!月が蒼い天空に 銀の小船のように
昇っていく

そして私は松の暗い木陰に立って涼しい
夕風を一人身に受けている

小川のせせらぎが夕闇に響き渡り

花は夕映えの微光に色を失う

大地は安らぎと眠りの中に沈んでいき

その時から全ての憧れが夢見はじめる

生きることに疲れた人間は

過ぎ去った幸福と青春とを

眠りのうちに蘇らそうと家路につく

鳥は静かに木の枝に休んでいる

世界は眠りに落ちたのだ!

松の木陰に冷え冷えと風が吹き

私は最後の別れを告げる為に

木の下で友を待ちわびる

友よ、君が来れば

この美しい夕映えを共に愛でよう

君は何処にいるのか?

私は一人ここに佇んで君を待ちわびている

私は琴を手にして柔らかい草花が

波打つ道を彷徨する

おお美よ!

永遠の愛と生命とに酔いしれた世界よ!

友は馬を下りて別れの酒盃を差し出す

そして私は君に尋ねる

「君は何処に行くのか?また何処に?」と。

私は愁いを帯びて口を開く

「友よ、この世に私の幸福は無かった。
 私は一人寂しく山に彷徨い入る」

「疲れ果てた孤独な魂に永遠の救いを求めて
 今こそ故郷へ帰っていくのだ。私は心静か
 にその時を待ちうけている。」

しかし春になれば愛する大地は再びいたる
ところに花が咲き乱れ樹々は緑に覆われて

永遠に世界の遠き果てまでも青々と輝き渡る

永遠に.....永遠に.....

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そしてこれが日本語に訳した詩。元々は中国の王維などの詩を
マーラーが切り貼り?したものですだ。
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# by stavgozint | 2008-10-12 12:42 | 「青頭巾」