「青頭巾」終焉(其の一)

「江月照松風吹 永夜清宵何所為」
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快庵禅師が阿闍梨に与えたこの言葉…。

訳すれば「入り江には清らかな月の光が差し、松吹く風は
爽やかな声を立てている。この永い夜の清らかな宵の景色
は、何の為にあるのか。」


ところで全くの的外れかもしれないが、この「江月照松風吹
永夜清宵何所為」を読んで思い出したのは、グスタフ・マー
ラー作曲「大地の歌(6楽章)」だ…。
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Die Sonne scheidet hinter dem Gebirge,

In alle Taler steigt der Abend nieder
Mit seinen Schatten,die voll Kuhlung sind.

O sieh! Wie eine Silberbarke schwebt
Der Mond am blauen Himmelssee heraut.

Ich spure eines feinen Windes Wehn Hinter
den dunklen Fichten!

Der Bach singet voller Wohllaut durch
dass Dunkel.

Die Erde atmet voll von Ruh und Schlaf.

Alle Sehnsuchtwill nun traumen.

Die muden Menschen gehn heimwarts,Um im
Schlaf vergessnes Gluck Und Jugend neu
zu lernen!

Die Vogel hocken still in ihren Zweigen.

Die Welt schlaft ein!

Es wehet kuhl im Schatten meiner Fichten.

Ich stehe hier und harre meines Freundes.

Ich harre sein zum letztten Lebewohl.

Ich sehne mich, o Freund, an deiner Seite

Die Schonheit dieses Abends zu geniessen.

Wo bleibst du? Du lasst mich langallein!

Ich wandle auf und nieder mit meiner Laute

Auf Wegen, die von weichem Grase schwellen.

O Schonheit! O ewigen Liebns-Lebens-trunkne
Wwlt!

Er stieg vom Pferd und rechte ihm den Trunk

Des Abschieds dar. Er fragte ihn,wohin
Er fuher und auch warum es musste sein.

Er sprach, ud seine Stimme war umflort:Du,
mein Freund,

Mir war auf dieser Welt das Gluck nicht hold!

Wohin ich geh? Ich geh ich wandre in die Berge.

Ich suche Ruhe fur mein einsam Herz

Ich wandle nach der Heimat! Meiner Statte.

Ich werde niemals in die Ferne schweifen.

Still ist mein Herz und harret seiner Stunde!

Dieliebe Erde alluberall bluht auf im Lenz und grunt

Aufs neu! Alluberall und ewig blauen licht die Fernen!

Fwig ....fwig.....

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ちなみに…ウムラウト無しで書き記しましただ。。。

とにかくこれがマーラーの「大地の歌(6楽章)」のドイツ語による詩。
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# by stavgozint | 2008-10-12 11:38 | 「青頭巾」

「青頭巾」展開部其の六

禅師いふ、「里人のかたるを聞けば、
              汝一旦の愛欲に心神みだれしより…」
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…とある。心神と書き記し「こころ」と読む。そういえば、人には神が
宿っていたというのを思い出した。それとは別に、仏が宿るとはなか
なか言わないものだ。

よく坊主が本地垂迹を示す場合「樹木には神が宿る。その樹木から
仏像を彫るのであるから、仏と神は同じである。」というような言い方
で、布教に勤めた話がある。

ただ実際、神が宿るのは樹木だけではなく、人間にも宿る。例えば
”頭”もそうだ。元々”頭”は”天の霊(あまのたま)”とも呼ばれ、人間
の頭に天の霊が降りたものだ。それはつまり、神が頭に降臨したもの
に等しい。

心とは何ぞや?と問えば、頭を差す場合と心臓を差す場合があると
いうが、ようは心の事を言っている為だ。つまり心は神が宿っている
もの。

正確に言えば、神が与えたものが宿っているものが心なのかと思っ
てしまう。

ここでの快庵禅師の言葉として使われた心神(こころ)は、そのまま
心というものを上田秋成の時代の人々が感じていた事なのだろう。
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# by stavgozint | 2008-10-11 22:09 | 「青頭巾」

白彼岸

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なき君をおもう炎は白彼岸花逢うたびに浮かぶおもかげ
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# by stavgozint | 2008-10-10 20:45 | 遠野の花

蜻蛉

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秋つ空ただよいながれ蜻蛉とぶはかなかなりし命とどめて
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# by stavgozint | 2008-10-10 11:03 | 遠野の生き物達

彼岸花

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血はたぎりほとばしりゆく花となりかなたこなたへ命いきゆく
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# by stavgozint | 2008-10-10 06:52 | 遠野の花

「青頭巾」展開部其の五

禅師が前を幾たび走り過ぐれども、更に禅師を見る事なし。堂の方に
駆りゆくかと見れば、庭をめぐりて躍りくるひ、遂に疲れふして起き
来らず。
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「耳なし芳一」では、全身にお経を書き記して、亡者から発見されぬ
ようにした。また「太平百物語」では、一晩中読経する事により化け
物から逃れた。「怪談とのゐ袋」では、気配を絶って怪物から助かる
話。いずれも背景には信仰の力というものがあるのだが、この「青頭
巾」の場合は、気配を絶ち、自然に溶け込む事によって魔から逃れた
となるのだろうか。ただ後半に示される言葉「江月照松風吹 永夜清
宵何所為」にかかってくるのだと思う。

ところで日本の曹洞宗開祖である道元は、ただひたすらに坐る事を重
視した。何かの功徳や利益を得る為に坐るのではなく、ただ坐る事に
打ち込む事であると。つまりこれは、ただそこに座すという事であり、
そこには自我が消え去るという事ではないのだろうか?鬼となった阿
闍梨という存在は、欲望の権化であり、動的存在だ。それと相対する
快庵禅師は、ただひたすらに風景と化した。

鬼をもって鬼を制すという言葉があるが、これは鬼になるからこそ、
そのものの邪心が目に付くからなのだと思う。ところが自らに纏うも
の全てを脱ぎ捨てて自然に帰るというものは、その風景に溶け込む
ものであるから、阿闍梨には見えなかったのだろう。
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# by stavgozint | 2008-10-09 17:15 | 「青頭巾」

「青頭巾」展開部其の四

夜更けて月の夜にあらたまりぬ。影玲瓏としていたらぬ隈もなし。
子ひとつとおもふ此、あるじの僧眠蔵を出でて、あわただしく物
を討ぬ。たづね得ずして大いに叫び、「禿驢いづくに隠れけん。
ここもとにこそありつれ」と…
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月の出と共に、阿闍梨は鬼に変貌した。ここをどう捉えるかだ。
月に関する伝承は、古今東西に広がりを見せる。


*月の軌道が狂ったのだ。いつもよりずっと地球に近づいたので、
 人間どもが狂いだしたのさ。   シェイクスピア「オセロー」

*魔物に憑かれて生じる精神錯乱。怏々として楽しまない鬱病。
 月にうたれて生ずる狂気…。      ミルトン「失楽園」


月が、人の狂気を導き出すものと信じられていた。「竹取物語」でも、
「月の顔を見るのは忌むべきことだ。」とある。つまり、平安の世で
は、月を眺めるのは不吉だという意識があったのだろう。何故かと言
うと、それは人間としての”死”をもたらすものという意識がある為
だったのだろう。

岩手の俗信に「月の光を浴びながら寝ると、寿命が縮まる。」という
のがある。月の光が、なんらかの影響を人間に与えているものという
意識はずっと伝えられてきたのかもしれない。

今では殆ど見られなくなったが、大正時代までは欧米のハロウィンの
ように子供らが近所の家々を回って供え物などを貰い歩くという風習
もあったというのは、もしかしてキリスト文化が日本国に混入されて
いた為なのかもしれない。

そして思う…もしかしてこれは日本版「禿山の一夜」だったのではな
いのか?
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# by stavgozint | 2008-07-31 20:05 | 「青頭巾」

「青頭巾」展開部其の三

看る看る日は入り果てて、宵闇の夜のいとくらきに、燈を
点けざればまのあたりさへわからぬに、只澗水の音ぞち
かく聞ゆ。あるじの僧も眠蔵に入りて音なし。
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ところが闇が周囲を覆いつくしても、阿闍梨の変化は無い。
ただ水の音だけが響くという、ある意味不気味な間を作り
上げている。
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# by stavgozint | 2008-07-31 20:02 | 「青頭巾」

「青頭巾」展開部其の二

日の影申にたかぶく此、快庵禅師寺に入りて錫を鳴らし給ひ、
「遍参の僧、今夜ばかりの宿をかし給へ」と、あまたたび叫べ
どもさらに応えなし。眠蔵より痩せ槁れたる僧の漸々とあゆみ
出で、咳びたる声して、「御僧は何地へ通るとてここに来るや。
此の寺はさる由縁ありてかく荒れはて、人も住まぬ野らとなり
しかば、一粒の斎糧もなく、一宿をかすべきはかりごともなし。
はやく里へ出でよ」といふ。
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ここの文章を読む限り、阿闍梨に人としての躊躇いがあるのが
わかる。しかし人間らしさも、ここまでだ。 つまり阿闍梨は、半分
人間であり、半分が鬼だという事がわかる。ここで先述した二十
三夜という半分死に半分生きている月の存在が重要になるかも
しれない。
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# by stavgozint | 2008-07-31 19:57 | 「青頭巾」

緑の霧

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音もなく森の緑は霧にとけ なにごともなくただながれされり
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# by stavgozint | 2008-07-27 13:23 | 遠野幻想