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「青頭巾」序章10

>其の肉の腐り爛るるを吝みて、肉を吸ひ骨を嘗めて、はた喫ひつくしぬ。

これは単純に、愛したものの死肉を食ってしまった事から、残虐な鬼に
変ってしまったと解釈していいのだろうか?

文化的食人と、言ってよいものかどうか…。ただ「食人」の持つ思想的な
意味は二つあるという。一つは、故人の持つ魂や能力を身に付ける為に、
自分の持ち得ない能力、もしくは自分より優れた人物を食らう事により、
その人物の知識や経験を受け継ごうとする思想。

もう一つは、敵を殺した場合は、その脳味噌を食べるというもの。これは、
古代の中国では、魂は脳に宿るものとしたので、その死者が復活しない
ように、脳味噌を食らったのだそうな。

北京原人にも、ネアンデルタール人にも、頭蓋骨に穴が開けられた痕が
あり、どうも原始的な文化には脳味噌を食らう風習があったのだと伝えら
れる。

ところで日本語で言うところの「頭」とは、元々天の霊(あまのたま)と
いう意味から、神が降臨した場所を現す。故に人間とは、神の意思に委ね
られているのだという考えが、かってあった。つまり頭であり、脳を食ら
うという事は、故人の魂を食らう事だ。

「魂」という漢字には「二」に「厶」を足し「鬼」が加わって「魂」とな
る。「二」は「二つ」を現し、「厶」は「私的」であり「わからない様」
でもあり、そして「よこしま」という意もある。その曖昧な私的な存在に
鬼が加わって「魂」となるというものは、元々魂とは、何にでも変化する
人の存在の恐ろしさを現しているのかもしれない。

また「二」と「厶」の左に「人」を足すと「伝」という漢字になる。解釈
をすれば「自ら広める」という意味になるのだろうか?どちらかというと、
能動的で「陽」の雰囲気が漂い、逆に「魂」はいろいろ影響を受けそうな
受動的で「陰」の雰囲気だ。

梅図かずおの漫画に「神の左手悪魔の右手」というものがあるが、まさに
「二」+「厶」 という漢字の右に「鬼」という漢字が付くか、左に「人」
という漢字が付くかで、その訴える雰囲気は、まったく変わってしまう。

もしかして阿闍梨は、愛する者を食らう事により、魂の昇華を求めたのだ
が、バランスが偏り狂った為に自己のアイデンティティーが崩壊し「鬼」
となったのかもしれない。それだけ人を食らうという行為は恐ろしいもの
だ。

菅江真澄が天明の大飢饉に喘ぐ陸奥の国を歩く中で出会った乞食の
言葉には、東北の殺生罪業観が浸透していた事が伺える。

真澄の前にいた乞食は、飢饉で死んだ人々の前で涙を流しながら、自分
は人や馬を食って、辛うじて生き永らえていると言った。真澄は乞食に人
や馬を食べたのは本当かと問う。すると乞食は、こう答えた。

「人も食べ侍りしが、耳鼻は、いとよく侍りき。馬を搗て餅としてけるは、
たぐひなう、美味く侍る。しかはあれど、あらぬくひものなれば、ふかく
ひめて露、人に語らず侍るは、今に至りても、あな来たなとて、つふね
(下男)、やたこ(奴)にもめし給ふ人なれば、男女なべて、隠し侍る。
たうときかたにまうで侍る旅人、出家は、改悔懺悔して、罪も滅びなん
と思ひ、ありしままにもらし侍る。」



上田秋成の時代、平和な世のイメージもあるのだが、江戸には四大飢饉と
いうものがあり、上田秋成の耳にも、その人を食らうまでなった悲惨な飢
饉の話が届いていたのだと思う。宗教さえも届かない、人を食らうまでな
る飢饉の悲惨さの意識が、もしかしてこの「青頭巾」の中にも盛り込まれ
ていのかもしれない。
by stavgozint | 2008-06-17 23:09 | 「青頭巾」
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