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紫の宝石

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紫陽花の花つみとりてこのきらめきは君の手をとりその指にこそ
# by stavgozint | 2008-07-23 18:14 | 遠野の花

「青頭巾」展開部其の一

山院人とどまらねば、楼門は荊棘おひかかり、経閣もむなしく苔蒸しぬ。
蜘網をむすびて諸仏を繋ぎ、燕子の糞護摩の牀をうづみ、方丈廊房すべ
て物すざましく荒れはてぬ。
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ここから快庵禅師は、阿闍梨のいる寺に辿り着いた。阿闍梨が鬼となっ
て、寺の荒れようを表しているのだが「蜘網をむすびて諸仏を繋ぎ、」
という表現に心を惹かれてしまった…。

いろいろな小説を読むと、蜘蛛の巣を張っている情景描写がよくあるが、
大抵の場合、蜘蛛の巣が張られる事により、不気味さを醸し出す表現が
殆どの気がする。しかし、この上田秋成の表現は、今までの蜘蛛の巣の
表現を打ち払うかのように美しさを感じる…。
# by stavgozint | 2008-07-23 12:35 | 「青頭巾」

「青頭巾」序章14

>山里のやどり貝鐘も聞えず。廿日あまりの月も出でて、古戸の間に
>洩たるに、夜の深きをもしりて、「いざ休ませ給へ」とて、おのれ
>も臥所に入りぬ。


貝鐘も聞こえずというのは、鬼となった阿闍梨のいる寺で吹き鳴らす
貝や鐘が聞こえぬというのは、仏のおらぬ闇の世界と訳してもいいの
だろう。何故ならこの後に「廿日あまりの月も出でて」とあるからだ。

平安の世は、それこそ太陰暦を採用していたので、新月から始まり晦
まで、事細かに月の形を示している。平安の世での月は重要なもので
あり、「十六夜月」「居待月」「寝待月」などの趣きある呼び名も使
われた事から、月に対する想いを感じる。

ところで古代、太陽は東から昇り(生まれ)西へと沈む(死ぬ)とい
う概念がある通り、月にもまた満ち欠けにより、命の推移があったよ
うだ。

廿日あまりの月とは、多分二十三夜月で、半月。半分満ち、半分き影
にとなっている形。要は半分生きて、半分死んでいる状態が二十三夜
月だ。

ところで江戸時代には、盛んに二十三夜講という月待ち行事が行われ
た。

月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの
特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にした後、
経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事だ。

二十三夜月には広く伝わる俗信があり、その生きているか死んでいる
か、どちらともとれない不安定な二十三夜月の明かりに映る影に、首
が無いと死期が近いと云われている。

その二十三夜月の明かりが古戸の間から漏れて、快庵禅師は夜の深さ、
闇の深さを知る。明日は快庵禅師自らが、阿闍梨の寺へと行く覚悟を
感じる文章である。なので快庵禅師は「いざ休ませ給へ」口に出して
述べて眠るというのは、この前の不安を醸し出す「廿日あまりの月」
にかかっているのだと思う。
# by stavgozint | 2008-07-22 21:20 | 「青頭巾」

淡き紫

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紫陽花のひそやかなりし紫は 淡き想いをただ伝えけり
# by stavgozint | 2008-07-22 20:20 | 遠野の花

「青頭巾」序章13

さるにてもかの僧の鬼になりつるこそ、過去の因縁にてぞあらめ。
そも平生の行徳のかしこかりしは、仏につかふる事に志誠を尽せし
なれば、其の童児をやしなはざらましかば、あはれよき法師なるべ
きものを。

一たび愛慾の迷路に入りて、無明の業火の熾なるより鬼と化したる
も、ひとへに直くたくましき性のなす所なるぞかし。

『心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る』とは、此法師がた
めしなりける。老衲もしこの鬼を教化して本源の心にかへらしめな
ば、こよひの饗の報いともなりなんかし」と、たふときこころざし
を発し給ふ。

莊主頭を畳に摺りて、「御僧この事をなし給はば、此の國の人は淨
土にうまれ出でたるがごとし」と、涙を流してよろこびけり。山里
のやどり貝鐘も聞えず。廿日あまりの月も出でて、古戸の間に洩た
るに、夜の深きをもしりて、「いざ休ませ給へ」とて、おのれも臥
所に入りぬ。
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>無明の業火

永く身を苦しめる煩悩の炎であって、無明とは希望無き明りとでも
訳するのだろうか。無明とか無常、無情など「無」が付く漢字は、
通常の意味に相反する場合が多い。

ただ無心となると、心は邪なものを考える?ので、無の心は邪心の
無いものと、やはり逆になってしまうのか。。。

つまり人間の常と相反してしまった為に、阿闍梨は鬼となった。

そしてその鬼となった根底には阿闍梨の強い心があった。

>ひとへに直くたくましき性のなす所なるぞかし。

この訳には、自分が読んでいる「新潮日本古典集成」では…。

*「本気で強気な性質。「直く」は、古代人に憧れた秋成が、常に
  理想とした性格である。」
とある。

古代人に憧れた秋成というものを、自分はわかっていない。それだ
け全ての作品を読み切っていないという証拠だ。しかしこの「青頭
巾」において、無明の業火に焼かれつつも、阿闍梨が強い心を持っ
て鬼となった事を、秋成は憧れていたのだろうか?ここが謎である。

>『心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る』

心を欲望のまま開放すれば、妖魔となってしまう。人間であれば、
その欲望を開放せずに、押さえ込もうという力が働くものだと言っ
ているようなものだが、先程の”無明”では無いが、相反する事柄
の場合、その人なりの力を要するものだ。つまり”無明”とは、永
く身を苦しめる煩悩の業火なのだが、その身を苦しめる場所に身を
投げ出す行為そのものが秋成にとっての憧れた力だったのだろうか?

実は、たんたんと物語が進む中にちりばめられた、上田秋成の謎が
潜んでいる。いったい上田秋成は、どういう心情でこの「青頭巾」
を書き上げたのだろう?
# by stavgozint | 2008-06-29 20:18 | 「青頭巾」